はじめての沖縄(2)

 午後は、バスに乗って、南部を回ることにした。バスは「本当にこれが走るのか?」と思うほどの古いバスである。聞くところによると、沖縄の路線バス会社はどこも経営が苦しく、新車の置き換えができるような状況ではない、とのこと。最近でこそなくなったが、かつてはバス停で待っていても素通りされてしまうこともあったようである。手を挙げなければバスは停まらないのである。鉄道が最近までなかったので、完全な車社会になっているのが大きな原因だが、そのようなサービスの悪さも苦しい経営の原因のひとつなのかもしれない。

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 いかにも南国らしい青い空と青い海。しかし、今から60年ほど前、ここは戦場であった。軍人はもちろんのこと、緊急で動員された少年少女たち、一般市民もこの地で死んでいった。

 沖縄戦最後の激戦地である摩文仁<まぶに>の丘にある平和祈念公園には、沖縄戦でなくなった20万人以上の名前が石に刻まれている。この戦争でなくなった人たちは、今の現状をどのように見ているのだろうか?


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 先ほども述べたように、沖縄では緊急事態ということで、多くの少年少女が動員されていた。その中のひとつ、沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の生徒は、ともに兵士たちの看護などにあたることになった。最初は病院に勤務していたが、状況が不利になり、洞窟の中で働くことになる。

 しかし、戦況がさらに不利になると、ついに日本軍は生徒に対して解散命令を出す。ここからが悲劇の始まりである。身の安全が保証された状況ではなく、ここは戦場の真っただ中。多くの少女たちが、戦闘中ではなく、解散後の数日の間に命を落とすことになる。その数200人以上。何とか生き残った人たちが働いていた洞窟の上に建てたのが、「ひめゆりの塔」である。ちなみに、「ひめゆり」とは、両校の校友誌からとられたものである。