晩秋の信州を訪ねて(2)

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 長野から長野電鉄に乗って30分ほどで小布施へ。小布施は、江戸時代の代表的な画家葛飾北斎が人生の最後に訪れた場所である。北斎が小布施を訪れたのは、パトロンの高井鴻山<たかいこうざん>が住んでいたからである。こういうパトロンがいたからこそ、小布施に文化の花が開いたのである。

 写真は高井鴻山記念館にある、鴻山の復元された書斎。この2階に竹製の琴があって、実際に弾くことができる。鴻山は明治になって政治にかかわろうとしたが、失意のうちにここ小布施に戻ってきた。この鴻山の弾く琴の音はどのようなものだったのだろうか?


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 小布施の町外れにある岩松院<がんしょういん>。ここの本堂の天井には、北斎の「八方睨大鳳凰図<はっぽうにらみだいほうおうず>」が描かれている。この絵を描くためにかかった絵の具代は2億円。もちろん鴻山の援助がなければできないものである。この絵は先ほども述べたとおり、天井に描かれてあるので、立って見るのは難しい。そこで、本尊に足を向けなければ、寝転がって見ることが許されている。

 この岩松院には、戦国時代の武将、福島正則の墓もある。福島正則は武勇に優れ、広島50万石の大名になったが、幕府の策略によって領地を没収され、1619年に信濃に国替えになった。失意のうちに死ぬのはその5年後である。

 この岩松院には多くの蛙がいて、春になればまるで合戦のように雌蛙を奪い合う。小林一茶の句に、「やせ蛙 まけるな一茶 これにあり」がある。この句は、1816年にこの寺を訪れた一茶が、病弱な子供のことを想って詠んだものである。しかし、子供はすぐに死んでしまったようである。


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 翌日、しなの鉄道で小諸に出かけた。かつてはすべての特急が停まっていたが、新幹線に見捨てられた小諸は暗い雰囲気がある。

 ここ小諸は、文豪島崎藤村が一時教鞭をとっていたところである。藤村の勤務していた学校、小諸義塾は、1893年に小諸の青年たちの要請にこたえて開設された私塾であり、町や郡も一時は積極的に支援していたという。

 昼食は、藤村も食べたといわれている「一ぜんめし」。豆腐が中心の定食形式になっていて、健康的である。店内には藤村の直筆の看板があり、伝統が感じられる。(おわり)